西洋医学と人体模型

第2話 西洋医学と人体模型

江戸末期から明治初期にかけては、フランス製の「キュンストレーキ」と呼ばれた紙塑製の人体模型が欧州から輸入されてきました。
これは紙で精巧に作られた教材用の人体模型であり、現在は東京大学だけに眼球模型のみが保存されています。
この模型は左眼球と眼筋の構造とが示されたもので、実物のおよそ10倍の大きさで制作されています。
紙素材だけで精巧な人体模型を作りあげるとは当時の西洋の技術に感心します。
この眼球模型は、1862年(文久2年)、オランダで眼科を学んだ伊東方成 という医師が、1868年(明治元年)に帰国に際して持ち帰ってきたものです。

明治後期から大正時代には、主に皮膚科疾患の記録にムラージュ法が盛んに用いられるようになりました。ムラージュ法とは、患部に石膏を当てて型を取り、これにパラフィンを材料にした蝋を流し込みます。そして、これによって複製をつくり、患部の彩色を施して仕上げる方法です。
ムラージュ法は、東京大学医学部の皮膚科教授であった土肥慶蔵(Dohi Keizou) (1866~1937) が、ドイツ留学時代にその技法を習得し日本に導入したとされています。
この時代までくると現代の人体模型の素材や作りの精巧さにもかなり近づいてきます。

・・・第3話 「東洋医学は、人体模型と関係が薄い」に続く

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